精神科救急の現場から
登場人物は
すべて
架空の人物です。
●通院中の患者さんが「コロナが怖い」と通院拒否に
2020年春からの、新型コロナウィルスの感染拡大は、おおぐま病院も大きな問題であり、厳重な対策がとられ続けている。
病院の玄関には外来患者さんと家族に検温と消毒をしてもらうため、職員が交代で対応し、発熱が疑われる人には駐車場に設けたプレハブで待機してもらっている。
これまで職員同士の交流の場でもあった食堂では食事中の会話は禁止され、また飲み会や外食も禁じられるなど、それまでの生活は一変してしまった。
同僚とカラオケに行くのが大好きだった看護師の赤城などは、たまったストレスを晴らすことができず、ついついスーパーで食品を買いすぎてしまう、と患者さんにまで愚痴ってしまっている。

通院患者の中には、週に一度訪問看護を行いながら、月に一度通院していた大林徹さんという60代の男性がいた。
さらにホームヘルパーが週に2回訪れて、三日分の食事を作って冷蔵庫に保管し、大林はそれを電子レンジで温めて食べているのである。
ところが最近になって大林は「コロナが怖い」と看護師やヘルパーが訪問してもドアを開けてくれなくなった。
何とかドア越しのやり取りだけはできていたが、通院のため病院に来ることもなくなった。
このため訪問看護の際に薬を届けてもらうことにし、ドア越しに会話をして玄関前に薬袋を置いてくることを続けていた。
ところがある訪問時に、前回の薬袋がそのまま放置されていたのである。
訪問看護師の井上はドアをノックして、「大林さん、どうして薬をそのままにしてあるの?飲まないと具合が悪くなりますから、どうか薬を中に入れて、今まで通り飲んでくださいね」と声を掛けたが、中にいた大林は「薬や袋にコロナのウィルスがくっついていたら感染するじゃないですか!テレビで見たんですよ!絶対くっついてないっていう保証はあるんですか!」と大林はやや興奮しながら答える。
「大林さん、お食事はしてるんですか?」井上が尋ねるが、返答はない。
「大林さん、お顔を見せてくださいよ。ちゃんとご飯食べてるのか心配なんですよ」
「コロナが怖くて食べられない・・」今度は弱々しい声で大林が答えたが、ドアが開けられることはなかった。
●自宅を訪問しても応答がなく、警察官を伴って部屋の中へ入ると
「これは困ったことになったぞ」大林の主治医の杉岡は頭を抱えた。
「明日また訪問して、もし応答が無かったら、アパートの管理会社と警察を呼んで、無理やりにでも入るしかない」杉岡は意を決して井上に告げ、保健所の精神保健担当にも連絡するよう精神保健福祉相談員の太田に伝えたが、保健所はコロナの対応でなかなか電話がつながらず、やっとつながっても「コロナ対応で忙しく、その件には対応できません」と言われてしまった。
警察署と管理会社には事情を伝え、明日の状況によっては臨場してくれることを確認した。

そして翌日、杉岡は井上とともに大林の部屋を訪れた。ドアをノックし「大林さん、おおぐま病院の医師の杉岡です」と声をかけた。
しかし「やめてください!コロナを持ち込まないで!殺される・・」と大林は弱々しいながらも拒絶し続けるため、杉岡は警察と管理会社に連絡し、合鍵を使って部屋に入った。
「やめてくれ、コロナが移る!」大林は立ち上がろうとするが、身体は痩せこけていて足にも力が入らずフラフラしている。ずっと風呂にも入っていないようで、身体からは悪臭も漂っている。
「大林さん、その身体じゃコロナにかからなくても死んでしまいますよ。いますぐ入院しましょう!」杉岡は大林の身体を支えながら外に連れ出し、病院に着くと体温と血圧を測り、すぐに栄養剤入りの点滴を始めた。大林には身寄りがないため、区役所に連絡して区長同意による医療保護入院の手続きをした。

「大林さん、危ないところでしたね。さすが杉岡先生!」看護師の赤城は杉岡の判断に感銘した。
「大林さんの場合には、テレビでその情報ばかり見て、薬も飲まなくなったら思考のバランスが崩れてしまってこうなるんじゃないかと心配した通りだったよ。コロナを全く警戒せずに遊び歩いている若い人もいるみたいだけど、こうやって『正しく恐れる』というのができない人もいるんだよね」
杉岡は赤城に説明したあと、「でも本当にコロナが収まってくれないと、大林さんは退院してからがまた大変だ・・」とつぶやいた。
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