精神科救急の現場から
登場人物は
すべて
架空の人物です。
●中学校で男子生徒がカッターナイフを振り回して暴れる
「もしもし、おおぐま病院ですか?東上野中学の教員の大沢と申しますが、石田先生をお願いします」
「石田ですね?お待ちください」
焦ったような口調の電話を受けた交換手はすぐに石田医師の院内PHSにつないだ。
「あ、マミ?ちょっと至急診て欲しい生徒がいるの。教室で隣の席の子にカッターナイフを向けちゃって、怪我とかはさせなかったんだけど、ちょっと神経過敏みたいで、今親を呼んで来るのを待ってるところなの。そのまま家に返すのも心配なので、親が来たら診てもらえる?私も一緒について行くから。無理言ってごめん!」

東上野中学の養護教諭をしている大沢亜由美と、この4月からおおぐま病院に勤務を始めた女性医師の石田真美は、高校の同級生である。石田は医学部を卒業後、一旦小児科医になったのだが、数年経った頃から児童精神科に惹かれ、精神科に転科して研修医からやり直し、現在は児童精神科を専門として児童相談所の嘱託医などもしている。都内でも児童を診る精神科医は少なく、これまで児童思春期の患者に悩まされていたおおぐま病院にとっては貴重な存在である。石田の着任以来、待合室には時々親子連れの姿がみられるようになっているのは、石田の前勤務地の大学病院から石田を追って通院先をおおぐま病院に代えたこどもが何人かいるためである。
石田と大沢は普段から電話やメールでもやりとりをしていたが、この日は深刻な事態を迎えていた。
金曜日のある日、大沢が勤務する中学校の1年生の男子生徒が、昼休みに隣の席の生徒に対し、カッターナイフを向ける騒ぎとなったのである。ナイフはすぐにしまったのだが、担任教師が事情を聞いても押し黙っているだけで、保健室の大沢のところに連れてこられたのだが、元々部活もやらず他の生徒ともほとんど話はせず、昼休みは一人で図書室に行って本を読んでいるような大人しい生徒だったという。

午後3時頃になり、母親と大沢に連れられて、その生徒がおおぐま病院に到着した。
制服のままなので病院の待合室では目立つが、午後で人が少ない時間だったのは幸いだった。
生徒は診察室に入っても緊張して表情は硬く、すぐには言葉が出てこなかったが、石田の優しい口調に少し安心したのか、ぽつりぽつりと話し始めた。丁寧だが平坦で抑揚のない口調で話した内容からは、隣の席の生徒が貧乏揺すりをすることや、休み時間に大声で笑っていること、そして昼に弁当を食べている時に食べ物を噛む音がずっと気になっていたこと、そして今日はついに我慢が出来なくなってナイフを出してしまったということであった。
母親に聞くと、子どもの頃から物音に敏感で、家では2歳下の妹がテレビを見ている時など嫌がってヘッドホンをして音を遮っているが、学校ではヘッドホンを使えないため手で耳を塞いでいることもあったという。また他の子どもや妹とも遊ばず、言葉の発達も遅めで紋切り型の口調が多く、小学校に入ってからも鉄道の路線図を書き写してばかりといった様子に母親も気になってはいたが、学校の成績は悪くなかったのでこれまで医師の診察を受けたことはなかったという。
●「ずっと我慢してたんだね。もうだいじょうぶだよ」
ひととおり話を聞いた石田は生徒に「ずっと周りの声や音に我慢していたんですね。辛かったでしょう。でもそのことがわかったので、もうナイフなんか出さなくても大丈夫ですよ。でも来週の月曜日は学校を休んで、またここに来てください。もちろん私服でかまいません。月曜日はいくつか検査をします。心理の先生にお願いして行う知能検査や、性格傾向をみる検査も含まれるので、少し時間がかかるかもしれません。これはあなたに罰を与えるのではなくて、あなたが安心して学校生活を送れるよう、工夫することをみつけるのが目的なので、是非協力してください」と話し、生徒もうなずいた。
「入院しなくても大丈夫でしょうか?」と母親は石田に尋ねたが、石田は「そこまでの必要はないと思います。でも今日のことは叱らないで下さい。お父さんにも良くお伝え下さい。ただ彼には少し発育・発達に偏りがあるかもしれません。月曜日に検査をしてそれを分析することでわかる場合もありますので、大変かもしれませんが、何回か通ってください」
「わかりました。ずっとこの子のことは心配だったので、是非ともよろしくお願い致します」
母親は深々とお辞儀をして生徒と帰って行った。

「やっぱり発達障害だよね?」
大沢は石田に話しかけた。
「多分自閉症スペクトラム障害でしょうね。対人交流が殆どないのと、あの喋り方と音に過敏というのでまず間違いないと思う。ちょうど月曜日は心理の原田先生が来る日なので、心理検査と知能検査をやってもらえばはっきりすると思うけど。今後は学校側の理解と協力が絶対必要なので、亜由美からもしっかり担任の先生に伝えてね」
「それはまかせて。先生から診断が出ればこっちも強く言えるから。でもほんと助かった!真美先生がいなかったらどこにお願いしていいかわからないもの」
二人のやりとりを聞いていた看護師の赤城は「え、お二人は同級生だったんですか?いいですねえ、先生同士こうやって協力できるなんて・・実は発達障害については私も興味があって、先生に教えてほしいと思ってたんです!」と叫ぶように言った。
「院長先生からも、今度の院内勉強会で発達障害をテーマに喋ってくれって言われているので、近々やることになると思いますよ」
「わあ、私絶対出まーす!」
赤城は目を輝かせた。
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