精神科救急の現場から
登場人物は
すべて
架空の人物です。
●誘拐事件?発生
「キャー!! 助けて!!」
総務省のキャリア官僚である溝口麻美がルーチンワークとなった残業を終え、夕食をすませて自宅マンションにたどりついたのが午前0時30分頃。
湯船にお湯を張り、ゆっくりと浸かっていると若い女性の悲鳴が聞こえてきた。

悲鳴はマンションの近くにある月極駐車場の方向からである。
マンションの3階の麻美の部屋から声のした方向を見ると、白っぽいワゴン車がブレーキランプをともして止まっている。
しかし、すぐにブレーキランプが薄くなりワゴン車は走り去った。
麻美はナンバープレートを確認。メモを取って、ふと向かいのマンションを見ると、いくつかの窓に人影が見え、ワンボックスカーが走り去った方向を見ている。
しばらくするとパトカーが3台、到着し「立ち入り禁止」のロープが張られるなどものものしい雰囲気になってきた。野次馬も集まってくる。麻美は急いで身支度を整えると、パトカーの警察官の所に駆け寄り、控えておいた車のナンバーを教えようとしたが、なかなか警察官のところまでたどり着けない。
仕方なく携帯で110番し、さっき見た内容とワゴン車のナンバープレート、自宅の住所を教えて、マンションに戻った。

しばらくすると警察官がやってきた。ワゴン車のナンバーを書き留めた紙を渡し、その時の状況を見たまま話した。
その後、1時間ほどで立ち入り禁止のロープも解かれ、警官もすべて引き上げた。すでに午前3時を過ぎている。ところが、麻美はまだ興奮がおさまらず眠れないでいた。結局、夜明けまで眠れず、うとうとしかけたところでいつもセットしてある目覚ましが鳴ったためそのまま起きることにした。

出勤のためマンションを出ると、入口付近で数名の主婦が話をしていた。
「きのうの晩、事件があったのよ」
「ええ、私も聞いたのよ『キャー、助けて』って女性の声」
「何だったのかしらねえ」
「そうそう、私、窓から見ていたのよ。ワゴン車から男の人が降りてきて、その女性を捕まえて無理矢理ワゴン車に乗せて走っていったのよ」
「怖いわね」

麻美からの通報もあって、白いワゴン車はすぐに見つかった。そのワゴン車には二十歳前後と思われる男女が乗っていた。
「こいつ、いつもなんですよこの頃」
「何が?」
「変なんです。変になっちゃったんです。急に大声をあげたかと思うと、車から飛び出して“助けて!”って叫ぶんですよ。俺が何かしたみたいじゃないですか。困っているんですよ。俺、犯人扱いされるし、事情がわかればわかったで、病院にきちんと連れて行けってお説教されるし」
「君たちは知り合いなの」
「ええ、そうですよ。いっしょに住んでいるんです」
「結婚しているの?」
「いいえ、籍は入れてませんけど」
「同棲しているっていうこと?」
「うーん、同棲かどうかしらないけど、いっしょに住んでいる」
「免許証、見せて」
「はい、どうぞ。あっ、この間も今日と同じようなことがあって、それで警察で色々と聞かれたんですよ。川越の警察で」
「美濃隆一郎さんですね。彼女は?」
「坂上春華(はるか)です」

警察官はすぐに本署に連絡を入れ今聞いた内容と男性の氏名等を伝えた。
一方、女性を保護した警察官は、扱いに苦慮していた。うずくまったままで、声をかけても肩をゆすっても固くなったまま反応しないのである。それでいて急に「イヤー!!ヤメテ!!」と大声を出して走り出したかと思うとまたすぐにうずくまって固くなる。何を言っても反応はない。しかし、恐怖にふるえ身を固くしていることははっきりとわかった。
「病気じゃないかしら」と女性の刑事が言った。
「前にも扱ったことがあるのよ。精神科の病院、探してもらった方がよさそうね」
しばらくして本署から連絡があり、先週、川越で同じような状況になり、取り調べを受けた後、釈放されていたことがわかった。その時に覚せい剤などの使用も考え、尿検査もしたのだがまったく反応は出なかったということだった。
●警察から病院へ
そこで、今回は坂上春華さんを保護し、美濃隆一郎さんに任意で同行を求めた。
「美濃さん、坂上さんを病院に連れて行った方が良いと思います。今、本署で病院を探していますから着いてきてもらえませんか。それともこのままお二人で帰りますか?」
「いいえ、着いて行きます。こんな状態じゃ帰れないよ」 精神科救急情報センターでは警察からの情報をもとに坂上春華さんの診察をお願いできそうな病院に連絡していた。
「まだ、見つからないのか?」
「ええ、県立病院も民間の当番病院も今日はもう無理なようですね。たしかに今日はもう10件もありましたからね」
「東京とかはだめかな?」
「とりあえず聞いてみますけど」
「おおぐま病院はどうだ?」
「聞いてみましょうか?」

「はい、おおぐま病院事務当直の三上です」
「こちら県精神科情報センターなんですけど、こちらでは県立病院も民間の当番病院も今日はいっぱいで受けてもらえないんですが、おおぐま病院でみていただくことはできますか?」
「患者さんはどのような状態ですか?」
警察からの情報をもとに情報センターの担当者が説明した。
おおぐま病院の三上は折り返し電話するからといったん電話を切り、当直の院長に状況を説明した。
「県外じゃないか」 院長の第一声である。
「診察だけはしますって伝えて。救急病棟のベッドに空きがないから入院は無理だと伝えて」
そう言いながら、救急病棟の当直看護師に
「保護室、ひとつ空けられない?」と電話した。
「エッ!今からですか」
「そう、今から」
「何とか調整してみます」
「頼むね」
「いやぁ~、頼むと言われても保証はできませんけど、頑張れるだけ頑張ってみます」
「ああ、それで良いよ。結果は出してね」
「エッ、それって必ず空けてということですか?」
「鋭いね。でも頑張って結果が出なければいやだろう。じゃあ結果、出そうよ」

美濃隆一郎と坂上春華がおおぐま病院に着いたのは午前5時30分頃だった。外来看護師が春華を診察室へと連れてゆく。
「ご主人はこちらで待っていてください」と隆一郎に向かって言った。
隆一郎が座っていると、診察室から
「イヤー!」
「来ないで!!」
と声が聞こえてくる。
「大丈夫ですよ。」
「誰か居るの?誰が見える?」
と男性の声。
『お医者さんの声かな?』と思った時、隆一郎は
「美濃さんですか?私、PSWの三上と言います」と声をかけられた。
「お話をお伺いしたいのですがよろしいですか?」
「ええ、」
「いつ頃からですか?」
「春華がおかしくなったのは1カ月くらい前です」
「1カ月前ですね」
「いや、1カ月くらい前ということで、はっきりとはわかりません。ただ1カ月くらい前に今日と同じように車から飛び出して、何か、とても怖がっていて、・・・・・」
三上は隆一郎から現在の環境や春華さんのことなどを聞き出してゆく。

診察室では大熊院長が
「保護室、空いたか確認して」と外来看護師の赤木に指示した。
「空けたそうですよ」
「わかった、じゃあ坂上さん入院だから」
春華は入院し、保護室で様子をみることとなった。
PSWの三上は入院と聞いて隆一郎から聞いていた坂上さんのご両親に電話をかけた。
ところが連絡がつかず応急入院となった。
安定剤を注射され、昼頃まで寝ていたが、少し落ち着いてきた様子である。
入院翌日の夜になってようやく両親に連絡が取れ、3日目に来院されたため父親の同意による医療保護入院となった。春華は親に会えて安心したこともあり、保護室から個室に移った
見舞いにきた隆一郎に早く退院したい気持ちもあるけどまだ怖いと話している。
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