精神科救急の現場から
登場人物は
すべて
架空の人物です。
●コロナが治り、退院許可が出たが
これまでいくつかの精神科病院で、新型コロナウィルスのクラスターが発生し、ひとつの病院で職員患者数十人が感染したと報じられている。
幸いおおぐま病院では、これまで入院患者で新型コロナウィルス感染が判明した人はまだいない。
それだけに、感染しているおそれのある患者を水際で食い止めようと職員は必死で対応している。
そんな中、一人の女性患者の診察を近くの下柳総合病院から依頼された。
1か月前に37度の微熱と味覚の低下を自覚したため近くの内科に行き、PCR検査を受けたところ新型コロナウィルス陽性が判明し、幸い入院できたのだが、他の家族は皆陰性であり、10日ほどで症状もなくなって、検査でも陰性となったため、退院許可が出たのだが、不安が強いために退院を拒否しているのだという。

「え~、ホントにもう感染する可能性はないんですか?もし万が一、先生が感染しちゃったらどうするんですか?」依頼を受けた精神保健福祉相談員の太田は不安そうに言った。
「もちろんPCR検査での陰性は絶対ではないけど、すでに感染の危険はかなり低いはずだよ。それに不安だから、といつまでもコロナ用のベッドにいられたら、次に入院が必要な患者さんが入院できないのだから、何とか退院してもらわないと。不幸にして感染した人には心のケアも必要なのに、そこまで手が回らないんだろうから、そこをしっかりやるのは精神科の仕事だよ」
杉岡は諭すように太田に説明し、「診察の時はちゃんと防護服を着るから心配しないで」と言って下柳総合病院に向かった。
●もし祖母に感染させたらと思うと退院できない・・・と
「家には90歳になるおばあちゃんがいるし、私が退院して、もし感染させてしまったら、と思うと怖くて退院できないんです」
木崎紀子という32歳になる女性は涙を流しながら絞り出すように杉岡に話した。
「確かに絶対に大丈夫とは言えませんが、生活時間帯をずらして直接接触しないようにすることで、その危険はかなり減らせるはずですよ、と何度もお話ししているのですが・・」
感染症担当の岡田医師も困ったように杉岡に説明する。
「入院してから睡眠や食事は取れていますか?」杉岡が尋ねた。
「最初は入院できた安心感で眠れたんですけど、しばらくしてからは、これからどうなるのか、家族に感染させたんじゃないかと考えてばかりで、なかなか寝つけなかったり、夜中に目が覚めて眠れなかったり・・一昨日くらいからは食事も朝はほとんど食べられませんし、昼と夕食も二口か三口しか入りません。残してしまうのは申し訳ないので、お食事は出さないでくださいと一度お願いしたのですが、免疫力をつけるためにしっかり食べなきゃだめよ、と看護婦さんに叱られてしまって・・私なんかのために大事なベッドを使うべきじゃないのはわかっているんですが、もしおばあちゃんになにかあったら・・私がいなくなってしまえば解決するんですよね・・」と木崎は涙ぐむ。
「木崎さん、あなたは今うつの状態、うつ病と思います。あなたのような真面目な方がなりやすい病気です。すぐ家に帰るのが心配であれば、私の病院に移って少し落ち着いてからにしてはいかがですか?他の患者さんにうつすのが心配であれば、ちゃんと個室を用意しますので、不安が収まるまで療養しましょう」杉岡はゆっくりと説得し、木崎は「わかりました・・」とうなずいた。

杉岡は一旦おおぐま病院に戻り、翌日に入院できるよう病室の手配を整え、下柳総合病院の岡田医師に連絡した。
「先生、本当に感染の危険はないんですか?」相談員の太田が念を押すように杉岡に尋ねた。
「下柳の岡田先生が心配ない、というのを信じるしかないよ。もちろんこれまで通りの感染対策は必要だけどね。不安だからと我々が逃げていたら、誰が患者さんをケアするんだい?これからも新型コロナがいることを前提に診療をしていくしかないんだよ」
杉岡は自分に言い聞かせるように言った。
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