●低血糖で意識障害、拒食症?
おおぐま病院からそう遠くない隣の町には下柳総合病院という、二次救急にも対応している病院がある。今までもおおぐま病院の入院患者の身体合併症の治療や、下柳総合病院の患者に精神症状が出たときなど相互に協力し合っているのだが、今日は下柳総合病院の医師からおおぐま病院に往診の依頼が入った。
「一昨日入院した14歳の女性の往診をお願いします。身長155cmで体重は35kgくらいしかなく、低血糖による意識障害で入院となったのですが、約1カ月前にも同じような症状で入院しています。その時は食事をちゃんと食べるよう話して数日で退院したのですが、学校にも通っていて、元気そうに見えても食事を殆ど取っていなかったようで、前の退院時よりも体重は減っているようです。甲状腺などホルモン関係は異常がなく、拒食症を疑っています」
こうなると石田の出番である。石田は小児科から精神科に転じ、児童思春期を得意とする数少ない精神科医であり、おおぐま病院でも貴重な存在である。
石田は白衣を丸め、おおぐま病院に勤めるようになってから購入した通勤用の自転車の前かごに入れ、下柳総合病院に向かった。途中一か所登り坂があったため、このときばかりは電動アシストにすればよかったかなあと思いながらも何とか登り切った。病院の駐輪場で石田は白衣をまとい、玄関の受付でおおぐま病院の医師であることを告げると病棟に案内された。
患者の名は波田野芽衣、中学3年生で、最初に入った集中治療室からは出て、通常の個室に移っていたが、まだ点滴と心電図と酸素飽和度のモニターを指先に挟んだままでベッドに横になっていた。傍には心配そうな母親も付き添っている。
主治医の太田医師が患者と母親に石田を紹介した。
●3学期のはじめに「太ったね」といわれたことがきっかけに
「波田野さんはこれで同じ症状で二度目の入院ですよね?その背景にはおそらくこころの問題があると思います。それで今日は別の病院から精神科の石田先生に来てもらいましたので、どうか診察を受けて下さい」
太田医師はこれまでも何度か精神科に診察を依頼しているので、このようにきちんと患者に紹介するようにしている。精神科の医師による診察であることを患者にきちんと告げることは重要なのだが、以前のように「精神科なんて」と嫌がられることは、最近は少なくなっているようだ。
「はじめまして、精神科医の石田です。今の気分はどうですか?」
「頭がまだちょっとぼーっとするけど・・大体大丈夫」
「今日が何月何日かわかりますか?」
「え?・・10月・・13?」
「惜しい!今日は10月15日です。二日くらい意識がもうろうとしていた、ということかな?ずーっとご飯を食べてなかったみたいだけど、どうしてなのかしら?」
「だって・・太っちゃうから・・」
「今の自分の身長体重はわかりますか?」
「身長が155cmで、体重は・・35くらい」
「それは痩せすぎ。155cmだと50kg位が標準体重ですよ」
「50kgなんてありえない・・そんなに太りたくな~い・・」
「いつから体重を気にして食事を制限するようになったの?」
本人は黙っていたが、代わりに母親が「今年のお正月、私の実家に行っていろいろ食べさせてもらってきたんですけど、3学期の始業式にクラスの男の子に『肥えたね』って言われたとかでショックを受けて、それからすっかり食べなくなって・・」と困った顔で答えた。
「生理は来ているの?」
「4月くらいに来て、それっきり」
「心配じゃなかったの?」
「無い方が楽だし・・」
「食欲がないの?」
「食べたいと思うことはあって、一杯食べちゃうこともあるけど、あ、まずいと思って自分で吐いたり・・」
石田は痩せすぎによって身体に起こる弊害をゆっくり説明し、「あなたは摂食障害という病気です。このまま退院してもまた同じことを繰り返してしまうと思うし、それは身体にとって非常に危険です。ここを退院したら、そのまま精神科に入院して治療を受けて下さい」と説得した。
「え、学校は・・」
「学校の先生には私から説明します。また倒れちゃうのや、将来赤ちゃんが産めなくなったりするのは嫌でしょう?」
「それは嫌だけど・・太るのはもっと嫌だし、学校行きたい。友達と会いたい」
「ずっと入院するわけじゃないし、太らない食べ方を練習してから退院しましょう。お友達だって心配してる筈よ」
石田があの手この手で患者に入院の説得を続け、母親も「ね、芽衣ちゃん。この先生のおっしゃる通りにしましょう」と懇願するように説得すると、患者は下を向いたまま黙っていたが、そのうち身体が震えはじめ、涙を滴らせた。
「辛いのはわかるけど、あなたの将来のためなの。太田先生と話し合って、こちらの病院に移る日を決めますからね」
石田は太田医師に検査データなどを確認し、後日電話で転院日を決定することとした。
下柳総合病院を出て、再び自転車にまたがりおおぐま病院に戻った石田は、外来で波田野芽衣のカルテの作成を始めた。
「先生、どんな患者さんなんですか?」
看護師の赤城が覗きこむように尋ねた。
「まあ典型的な摂食障害の女の子だと思うけど、何回か診ないとはっきりとは言えないわね。155cmで35kgないというから、痩せすぎもいいとこなんだけど、本人はそう思ってないのよね。体型への認知もかなり歪んでいるみたいだから、結構強敵かもしれない」
「え~!そしたらあたしなんかどうなっちゃうんですか~!昨日もケーキ3つ食べちゃって、どうしようと思ってるのに・・」
「赤城さんは健康だしちゃんと働いてるからそれくらい消費できますよ。そうそう、私も自転車通勤するようになってから、1.5kg減ったのよ」
「ほんとですか!私も自転車乗ろうかな~」
「それはいいけど多分来週あたりにこの人は転院してくるし、退院したら通院してもらうんだから、ちゃんと摂食障害の勉強をしておいてくださいね。そうそう、学校の先生向けの初期対応パンフレットがネットで手に入るので、これを読んでおいてください」
石田はすでに転院後の治療計画を考え始めていた。