●デパートのトイレに閉じこもっていた男性を警察が保護
「はい、こちらおおぐま病院です。あ、いつもお世話になっております。え、身元不明のままデパートで保護された方ですか?男性ですね?年齢はおいくつくらいですか?身元を示すものは何もないんでしょうか?会話もできないんですね?わかりました、すぐ受診させてください」

患者さんらしき人を保護した警察から救急情報センターに診察要請が入り、いつものように救急情報センターから救急システムの基幹病院であるおおぐま病院に診察依頼が入った。
「身元がわからないんじゃあカルテの作りようがないですね」当直の精神保健福祉相談員の太田は困り顔だが、当直の杉岡医師は「まあときどきそういう人はいるからね。来てから身元が判明することもあるし、家族から捜索願が出ていれば早めにわかることも結構あるから」と楽観的だ。

間もなく警察車両で患者が到着した。60歳くらいと思われる男性であるが、無精髭は伸びているものの、身なりはそう崩れていない。デパートのトイレに入ったまま閉店時間になっても出てこないため警備員が対応するも、話が通じないないために警察が呼ばれたのだという。
「こちらの病院で診察を受けられるのであれば、こちらにお名前を記入してください」
事務員の太田が診療申込書とボールペンを男性の前の机に置くと、
男性はペンを持ち「名前、名前・・」と小声でつぶやくが、なかなか肝心な名前を書かない。
「何さんとおっしゃるんですか?」赤城看護師が尋ねても、
「いやあ」と愛想笑いのような笑みを浮かべるだけで、答えようとしない。

「今日はどうされたんですか?」
「どこからいらしたんですか?」
「ご自宅はどちらですか?」
「どなたとお住まいですか?」
「お誕生日はいつですか?」
といった質問を繰り返すが、時折ニコニコするものの、男性は全く答えない。
仕方がないので診療申込書は同行した警察官に記入して貰い、杉岡医師の診察が始まった。

とはいっても会話は全く進まないので、血圧や体温を図り、指先で静脈血酸素飽和度を測定すると、若干頻脈で微熱があることと、皮膚が乾燥気味であるため軽度の脱水が疑われた。
そういった過程の中で、杉岡は男性の上下の下着の端に黒いマジックペンで「ナカザワ」と書いてあることに気づいた。
「あなたはナカザワさん、とおっしゃるのですか?」
杉岡が尋ねたが、男性は笑みを浮かべるも、「いやあ、どうだったか・・」としか答えない。
「今日は何月何日でしょう?」
「3月・・いや、2月かな」(実際には6月である)
「わからなくなったんでしょうか?」
「いやあ、そんなことは・・」と男性は相変わらず愛想笑いを浮かべるのみ。
●CTでアルツハイマーと確認、身元も確認できた
このような男性の誤魔化そうとするような態度に、認知症を疑った杉岡は、男性の頭部のCTスキャンを撮影することにした。レントゲン技師は既に帰宅してしまっているが、時折やってくるこういった事例に対応するために、おおぐま病院の医師の何名かはレントゲンやCTスキャンの撮影技術を習得している。とはいってもマニュアルを確認しながらであるため、専門の技師のようにスムーズにはいかない。男性に台の上に寝てもらい、慎重に位置を調整する。
「動かないでくださいね」
あまり意味がないかもしれないと思いつつも、杉岡は男性に声をかける。
操作室に戻った杉岡は祈るような気持ちでスタートボタンを押した。あとは機械が自動的に、頭頂部から眼球の高さまで10mm間隔でスライス画像をモニターに送ってくる。
5枚目の画像を見た杉岡は「やっぱりそうだ」と声を上げ、立ちあがった。
画像からは、大脳皮質が顕著に委縮して両側の側脳室が拡大した、典型的なアルツハイマー病の所見が見てとれたからである。
無事に撮影が終わり、「はい、お疲れさまでした」声をかけると、男性は狭い台の上でうとうとしていた。
左足には大きな火傷の跡があり、また腹部には胃の手術を受けたらしい跡もあった。

杉岡は男性を応急入院させることを決め、太田が区役所に連絡を入れた。
応急入院とは家族等の同意者がいない場合でも、72時間まで本人の同意なしに入院できる制度である。都道府県から応急指定を受けていない病院では適用することはできないが、おおぐま病院は救急入院料の算定開始と同時に応急指定も受けているため、家族が同伴できない場合には応急入院とすることがある。

「氏名不詳の男性、おそらくナカザワという姓で。診断はアルツハイマー病です」
警察にも「ナカザワ」という名前である可能性があることを伝えた。
杉岡は「応急入院についてのお知らせ」を男性に読み示し、赤城看護師に点滴の用意をするよう指示した。
果たして入院した3時間後の深夜になって警察から連絡が入り、神奈川県座間市の「中沢昭吉」という男性の家族から、三日前から行方不明になっているとして捜索願が出ているという。家を出た時の服装や胃の手術と火傷の跡という身体的特徴も一致するため、まず間違いないと思われたが、すでに深夜になっているため、家族には明日日中に来院して貰うことにした。

「早く身元がわかってよかったですね。でもどうやって座間からここまで来たんでしょう?歩いて来れる筈はないし、お金も持ってなかったでしょうし・・」
看護師の赤城がカルテを書いている杉岡医師に話しかけた。
「駅の改札をすり抜けて電車に乗っちゃう人は時々いるようだから、この人も多分そうやって移動してきたんだろうね。勿論悪気はなかっただろうけど。それよりあのCTだとかなり前から認知症を発症していたと思う。だからこそ家族の方は下着に名前を書いておいたんじゃないかな。もしナカザワという名前が書いていなかったら、身元判明はかなり時間がかかったかもしれないね。以前徘徊していたお年寄りが線路に入ってしまい、電車にはねられて亡くなるという事故があったけど、鉄道会社は家族の管理不行き届きだとして損害賠償請求をしたことがあった。一審二審ではそれが認められたけど、最高裁では家族の責任は問えないという判決が出たのは知ってるよね?常に見張っているということはできないにしても、もし行方不明になってしまっても身元が分かるよう名前を書いておくことは必要だね。なにせ1年間で1万人もの認知症の人が一時的にせよ行方不明になってしまい、中には長期間身元がわからないまま施設に入ってしまう人もいるんだから・・」
杉岡は田舎の両親の顔を思い浮かべながら、つぶやくように赤城に語りかけた。
「そんなに沢山いるんですか!」
赤城も田舎の祖母を思い出していた。