精神科救急の現場から
登場人物は
すべて
架空の人物です。
●大手家電メーカーのサービスステーションで働く由梨江が
2011年3月11日、大下由梨江が勤めている家電メーカーのサービスステーションは大きな揺れに襲われた。3年前に大学を卒業し、家電メーカーに就職した由梨江は仙台市にあるサービスステーションに配属され、実家から1時間ほどかけて通勤していた。

 由梨江はもともと、おとなしい性格のがんばり屋さんで、親が苦労して大学まで通わせてくれたことを知っていた。由梨江自身は高卒でもしかたがないと思っていたが、母親が「大学に行きなさい。頑張るから」と言ってくれたので、大学に進学した。早く就職を決めて安心させたいと思って“確実に受かる”といわれる会社を選んで受けたのだが結果はすべて不採用。

 その後、手当り次第に履歴書を送り面接までこぎつけた企業が10社、合格したのは現在勤めている会社だけである。もっとも合格したのが一流企業といわれる会社だったので安心したが、それだけに自分の力ではどうにもならない事情に支配されている現実を思い知らされた。

 入社後は東京での研修を終え、配属されたのは実家近くのサービスステーションだった。一流家電メーカーとはいえ、サービスステーションに勤務する人数は限られている。正社員は所長と係長、主任に由梨江の4名、他に嘱託のサービスマンが15名とパートの事務員が1名いるだけである。

 事務を取り仕切っているのは主任で由梨江はそのもとでアシスタント的に働いていたが、主任が退職することになりその仕事が由梨江にまわってきたのが昨年の8月。半年が経ちやっと仕事がうまく回るようになってきた時に震災に襲われたのである。所長と係長は渉外活動が主でサービスステーション内の仕事については詳しくない。だから主任の仕事はすべて由梨江に回ってきた。

 震災前はパートさんと二人でこなしていたし、月末などの一時期を除いて、定時出社、定時退社がほとんどだった。それに会社では売掛金の回収率が一位になるくらいに仕事にも打ち込んでいた。ある時などはやくざの組事務所に売掛金催促の電話をかけ続け、やくざ側が根を上げて支払ってもらったというエピソードもあった。

 仕事を頑張るだけでなく、退社後や休日には友人とテニスを楽しんだり、旅行に行ったりと充実した時間を過ごしていた。貧乏な家庭で育った由梨江にとって生まれて初めて“お金のことを気にせず自分の好きなことができる”暮らしだった。 ところが、震災の発生で一般家庭からテレビが壊れた、冷蔵庫が冷えないなどの電話がひっきりなしにかかってくるようになった。とても15名のサービスマンの手に負える量ではなくなり、本社など関東地区からも応援のサービスマンが入ってサービスマンの人数が倍以上になった。

 由梨江の仕事は電話の応対から、サービスマンの手配、伝票の作成、入金確認、支払など事務作業全般にわたっていた。これを半年前まではパートさんも含め3人で行っていたのだが、今はパートさんと2人でこなさなければなない。しかもパートさんの家は被災していて損傷も大きく避難所暮らしのため仕事にあまり出てくることができない。

 所長もこの状態が良いとは思っておらず、本社からも由梨江の仕事を応援するための人材が2名送り込まれてきたのだが2人とも管理職で、現場での作業はまったく知らなかった。そのため、さらに由梨江にはこの二人に仕事を教えなければならないという仕事までプラスされたのである。
●配転も効き目なく退職
本社から来た応援の人には伝票の書き方から電話の受け方、地名、など事細かに教えた。その分、由梨江の仕事が増え、帰宅時間もさらに遅くなった。

 朝8時には出社し、夜10時すぎてから帰る日が続いた。もうくたくただった。出勤の途中居眠り運転しかけたこともあり、もう少しで事故を起こしそうになった。所長からは『頑張りすぎなくて良いよ。伝票なんかは1〜2ヶ月遅れてもしかたがないよ。こんな状況なんだから』と言われたものの、由梨江は仕事はできるだけ完璧にこなしたいと頑張った。

 ある日、銀行に振込に行きゆっくりとした足取りでサービスステーションに帰る途中、広瀬川の橋をわたった。その橋の中間まで来た時にふと下を見て『飛び込んだら何もかも終わるよね。楽になれるかな』と思った。そして川面を見つめ続けた。ふっと飛び込もうとした瞬間、『だめ!』だと思って、その場にしゃがみ込んだ。

 『私は何をしようとしたんだ?子供の頃から死んだって何にもならない。耐えて頑張るしか無いんだと思って、今まで頑張って来たのに、ここで死んでどうなるの!』と思ったもののそれで元気になったわけではなかった。それでもどうにか立ち上がった時に、車から降りてきた女性に声を掛けられた。その女性は服装から看護師だとわかったし、名札には「おおぐま病院 奥村未来」と記されていた。

 由梨江は名札を見て「みらい(未来)さんか。そうだよね、みらい(未来)には良いこともあるよね。きっと」と思い直した。 どこからが精神科医療なの?

 おおぐま病院の看護師、奥村未来(おくむら・みく)は震災救援ボランティアに来ていた。
仙台空港方面での活動を終えて車で宿舎に戻る途中、ぼんやりと車外を眺めていた。
広瀬川の橋を渡っていると橋の真ん中でしゃがんでいる由梨江を見つけた。
何だか変だなと思った未来は運転している同僚に車を止めてもらい、降りて由梨江に話しかけた。

「どうかされましたか?」
「私、看護師なんですけど、ご気分が悪いようでしたら近くの医療機関までご一緒いたしましょうか?」 と由梨江に尋ねた。 尋ねられたことで由梨江は正気になった。
「あっ、いいえ大丈夫です」 未来はさらに「お車でお送りしますよ」と声をかけた。
「えっ、ああ、いいです。大丈夫ですから、少し歩きたいし。ありがとうございます」 と由梨江が答えた。
未来はその答えに少し安心した。由梨江の胸にある名札に一流家電メーカーの社名が記されていることを確認した。その社名はたまたま同じボランティアとして活動していた看護師、山内はるかの所属する企業だった。翌日、未来は今あったことをはるかに伝えた。

 5ヶ月後、未来のもとにはるかからメールが入った。由梨江は6月にサービスステーションから東北コールセンターに転勤となり、10月末日で退職することを知らされた。

 はるかからのメールには“由梨江さんは東北コールセンターではコールセンターのまとめ役という立場で、派遣社員の管理と忙しいときには自らも電話を受けるという仕事でした。実際には管理は上司であるコールセンター課長が行いますし、電話受付の派遣社員も多く、気が向いた時に電話を受ければよいという状態でした。会社としてはゆっくりすることで心の問題も時間をかけて解決していければと思っていたのです。でも心の傷は私たちが思ったより深かったようで、職場では元気に振る舞っていたのですがどうしても退職したいと退職願いが出されたのです。上司は『君には有給休暇が25日あるし、さらに震災で休日出勤した分の振り替えもあるので40日程度休めるから休んだらどうか。その後、それでも退職したいのならそのときに改めて退職願いを出せばいいと思うよ。そうすれば冬のボーナスももらえるし、いいんじゃないか』と説得されたが聞き入れなかった”とあった。

 未来は夜勤の救急外来待ちの時に、杉岡茂雄医師にこのことを話した。
「もし、由梨江さんが川に飛び込んでいて助かったら、精神科救急の出番だったんですよね。でもそのときに死んでいたら私たちの出番はなかったし、今回のような場合も出番があったような無かったような微妙ですね」と話し出した。

「そうだね、僕たちの知らないたくさんの人がこのように心が傷ついているんだろうね。震災の被害を直接受けた訳ではなく、毎日を元気に送っているように見えながら実は心が傷ついて苦しんでいるそんな人々が被災地やその周辺にたくさんいるんだろうね。目に見えて苦しんでいる人たちへの支援は考えられつつあるけど、由梨江さんのような人たちへの支援というのは残念ながらまだ考えられもしていないよね。由梨江さんのような人々への支援は精神科医療を超えた問題だというのは簡単だけど、だったら誰が担うんだというと誰も答えてくれないだろうし、自殺するまで待ちましょうというのではあまりにもひどいよね。どうすれば良いのか僕にはわからない。でも、放置していてよいとは思わないのでこれから真剣に考えることにするよ」と杉岡医師が言った。 未来はだまってうなずいた。
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