●臨床心理士の幸子が入院して感じたことは
南幸子はおおぐま病院の臨床心理士で、今年38歳。3歳年上の夫と二人暮らしである。夫は大手食品会社の営業部門で働いており、今まで名古屋、鹿児島、仙台、東京と3回の転勤を経験している。そのつど、幸子は新しい職場に移らなければならず、もう転勤はしたくないと思っていた。

 周りからは明るくて、はきはきした性格だから「どこに行ってもすぐに馴染めて良いわね」と思われることも多いが、本人は“明るく、はきはきと振る舞っているだけで、人間関係を一から作るのは大変”だと思っていた。

 現在、幸子は駅で階段を踏み外し大腿部を骨折、救急車で東京外科病院に搬送されそのまま入院している。外科が中心の病院だが、内科、整形外科も診ている病院で、ここの患者さんは、がんセンターなどからの紹介や転院も多い。外科分野では腕が良いと評判の病院であるが、紹介や転院で入院してくる患者さんは重症の方が多いため、逆にがん患者さんの5年生存率は低い。

 幸子が入院した病室は4床室で他に98歳のおばあさんと30代半ばの既婚女性、70歳代のおばあさんの4人が入院している。98歳のおばあさんは大腿骨骨折で手術を受け、回復途上にあるのだが「家に帰りたい、帰して欲しい」と看護師や医師が来るたびに懇願する。家族は毎日お見舞いに来ており、休日には孫がひ孫を連れてお見舞いに来る姿も見られた。この部屋では一番お見舞いにくる人が多い患者さんなのだが不安が強いようである。耳をそばだててよく話を聞いていると“病院に捨てられたんじゃないか”と思っているようだ。

 そんなおばあさんに当初、医師も看護師も『大丈夫ですよ、もうすぐ良くなりますからね』と対応していたのだが、日に日にその対応も悪くなって行った。5日後くらいに、お見舞いにきた娘さん(70代)に、医師が『もう、周りの患者さんの迷惑になるから連れて帰ってください』と言うのを聞いた。幸子はそれを聞いて、とても驚くとともに“体を診て、心を診ないというのはこのことなんだ”と納得した。

 翌日、デイルームで68歳になるというおじいさんから声をかけられた。胃がんで昨日入院したのだけど、不安で眠れないのだという。誰彼無く声をかけているようで、通り過ぎる患者さんは会釈していく。『今、通った人は肝臓が悪い』とか『あの人は胆のうを取る予定なんだけど、心臓にも病気があって血液をさらさらにする薬を飲んでいたのですぐには手術できないそうだ』と解説してくれる。おじいさんの表情からは明らかな不安が読み取れる。

 体を診る病院で心のケアは無いに等しかった。看護師さんの中には心のケアが少しできる人もいるようだが、その人を意識的に配置しているわけではなく、その看護師さんが別の病院で勤務していた時に勉強したようだった。幸子は『ここでも心のケアは大切よね。せめて臨床心理士がひとりいれば、98歳のおばあさんも無理矢理退院させられずにすんだだろうし、胃がんのおじいさんの不安も和らげることができただろうに』と思った。

 精神科の病院で身体症状があり、体のケアを必要としている患者さんは多い。しかし、体を治す一般の病院で心のケアがまったくなされていないだけでなく、医師をはじめとするスタッフが心のケアについて関心が無さ過ぎるように感じた。もっとも、病院によっては勉強会などで心のケアを重視しているところもあるようで、幸子の母が昨年入院していた病院ではどの看護師の対応も良かった。

 心も体も同じく“人”を構成するのだから、両方をきちんと診ることで病気も早く治るだろう。しかし身体科の病院で専門のスタッフを置いて心のケアを行っても、病院は診療報酬を得られない。その上、精神科の患者さんの合併症治療をお願いできる病院はそんなに多くない。じゃあ、そのためにどうすればいいのか・・。幸子は、今日も眠れない夜を迎えたようである。