精神科救急の現場から
登場人物は
すべて
架空の人物です。
●車で河原に突っ込んだものの
午後3時すぎ「青梅の多摩川に車が落ちた!」と119番通報があった。
奥多摩消防署から救急車が緊急出動、車は河原の大きな岩に激突しており、大破状態で運転者も気を失っていた。
免許証から運転者は名前を犬井喜治郎(25歳)と判明した。救急搬送された総合病院での診断は、シートベルトとエアバックに守られて外傷はほとんどなく、CT検査でも異常は認められなかった。しかし一点を見つめて全く口を利かないため、経過を見るために入院となった。
ところが数時間後、急に大声で、「いやだ!!」と叫んだかと思うと立ち上がろうとしたり、看護師の首を絞めたりしたため精神障害を疑った医師が警察を通じて、保健所に連絡、おおぐま病院に措置入院となった。

喜治郎は小学生の頃からとても優秀で、勉強はいつもクラスで1番か2番、進学高校から有名国立大学を卒業し、家電メーカーに入社。販売促進部門で頑張って働き、担当した製品がヒット商品となったため、評価もよく同期入社の中では一番先に主任になった。

主任になって数ヶ月後、部下におかしなことを言ったり、急につかみかかったりしたため「人が変わったようだ」と言われるようになった。この頃から、本人には「死ね!死ね!」という幻聴があったようだ。

「自分で死ねないのなら、殺してやる!」という声も聞こえてきたため、死にたくないと思った喜治郎は、殺しにきた死神につかみかかったのだが、喜治郎が死神だと思ったのは彼の部下だった。これは統合失調症の幻覚や幻聴によるもので、本当に死神の声が聞こえており、死神がはっきりと見えていたのだ。

幻聴はその後も続き、耐えきれなくなった喜治郎は、死ぬつもりで車ごと川に飛び込もうと青梅にゆき、多摩川の河原を目をつぶって走ったのだが、車は水に落ちずに大きな岩に激突して止まったのだった。
●隔離室で拘束されて
おおぐま病院の急性期病棟では最初の2日間、隔離室のベッドに拘束された。喜治郎は拘束されて動くこともできなかったものの、薬による鎮静作用でだんだん落ち着いてきた。その間、看護師が1時間に何度も様子を見にきたり、話しかけたりした。

精神科病院で患者さんを拘束するのは、医師や看護師が太郎の近くに行って治療したり、話を聞いたりするために必要だからである。「できることなら隔離室も、拘束もしたくない」というのが多くの精神科救急に携わる医療関係者の気持ちである。

暴れていた喜治郎も、2日間の治療で少し落ち着いてきた。入院して1週間後には閉鎖病棟に移ることになった。閉鎖病棟では自由に病棟から外に出ることは出来ないものの、公衆電話があり、自由に電話することができる。「ここの病院はおかしい」と思えば、都の担当部局に連絡することができるし、その電話番号が公衆電話の近くに書かれている。中には警察に110番通報をする患者さんもいるが、外部への電話は患者さんの権利として保証されている。

喜治郎は治療により回復、3週間後には開放病棟に移る。開放病棟は普通の病院と同じで、ナースステーションに一言断れば自由に外に出ることができる。開放病棟に移って1カ月後には、退院した。

その後、2度、入退院をくり返し、障害年金と生活保護を受けながら一人でアパート暮らしをして、デイケアに通うようになった。デイケアには朝、通ってきて夕方、アパートに帰る生活が続いた。
デイケアではテレビをみたり、将棋をしたり本を読んだりしている人や、体操や習字をしている人もいる。ここでは作業療法士が主となって、精神障害をもつ人たちのリハビリテーションを行っている。おおぐま病院のデイケアは大規模なもので、グループも3つに分かれて活動している。喜治郎は料理教室に参加、料理が好きになり家でも調理するのだが、ほとんど同じメニューばかりである。
●幻聴だとわかっていても
明日はデイケアのレクリエーションでぶどう狩りに出かけることになっており、これも楽しみである。もう死神の声が聞こえてきても、それが幻聴だとわかっているので死のうとすることはない。もっとも幻聴だとわかっていても苦しいことは苦しいので、なかなか普通に生活するところまでは行っていない。

料理の好きな喜治郎は親子どんぶりを作ろうと近くのスーパーに行き、ねぎと鶏肉をかごに入れた時に「今日はカレーを作れ」という声が聞こえてきた。
ああ、幻聴だと思いながら、鶏肉とねぎをもとの売場に戻し、牛肉とジャガイモ、タマネギ、カレールーをかごに入れたところ、またまた声が聞こえてきて「今日は外食にしろ」と言う。幻聴だと分かっていたが、幻聴につきあうことにして、すべての食材をもとの売場に戻し、何も買わずにスーパーを出た。

他のお客さんの中には『何かぶつぶつ言いながら、買うのかと思えば、買わずにもとに戻してしまうなんて、変な人がいるね』と思った人も居たようだ。喜治郎は聞こえてきた幻聴に声を出して答えていたので、そのお客さんたちには喜治郎の声だけが聞こえていたので変な人だと思ったのだった。

夜、幻聴が聞こえてきて不安になると訪問看護ステーションに電話をかける。
「声がきこえてくるんです」
「なんて言ってるの?」
「それが、死ねって言ったり、死んだらだめって言ったりするんです」
「幻聴ですね」
「そう、幻聴だってわかっているんですけど、なんか怖いんです」
「そう、怖いでしょうね。でも幻聴ですから何もしないですよ」
「ええ、わかってるけど…」
訪問看護ステーションの看護師さんは喜治郎が落ち着くまで電話につきあう。状態が悪い時は何時でも救急で病院に行くこともできるし、看護師さんが来てくれることもあるので、とりあえず今の生活を続けている。
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