精神科救急の現場から
登場人物は
すべて
架空の人物です。
●会社でも熱心に働き
精神科クリニックから紹介のあった加藤隆さん(23歳)がワゴン車の後部座席に乗せられてやってきた。大きな声で何やら一人で喋り続けている。

両親が「近頃、様子がおかしいので精神科の受診をすすめた」ものの本人は病気だとは思っておらず、むしろ「いつもより調子が良いのに、何を言っているの」と全く応じようとしなかった。

そこで両親は弟が通っている精神科クリニックについてきて欲しいと頼み、付き添いのつもりで訪れた。ところが、弟とともに本人が診察室に呼ばれ診察を受けた。クリニックの医師は極度の躁状態であり入院治療が必要だと判断し、おおぐま病院に紹介されやってきたのである。

診察室にはまず両親が入って来た、本人は車の中である。杉岡医師がそれまでのいきさつを両親から聞いた結果、本人はとてもまじめな頑張り屋さんであること、高校卒業後、就職し会社での評価も高いことなどがわかった。両親は実直な方だが父親が病弱で主に母親の収入で暮らしており、経済的にはめぐまれていなかった。高校卒業時には担任教師が地元の国立大学に必ず受かると強く進学を勧めたものの「両親を早く楽に(経済的に)させてあげたい」と就職したこともわかった。

そんな男性がマルチ商法に手を出した。
中学時代の同級生から
「隆、儲かる副業があるからやってみないか。日用品を売るだけなんだぜ。しかも、自分で代理店を勧誘すればその代理店が売った商品のリベートも入ってくる。儲かるぜ」と誘われたらしい。
本人はそれがマルチ商法だとはまったく感じなかった。
「お母さんもこれからは楽になるからね」と家で話していたという。

「母を楽にさせたい」そんな思いから、副業に精を出し、会社でも勧誘を始めた。
「山崎主任、この歯磨きすごくいいんですよ。環境にもとっても良いし、使ってみません。」
「いや、いらない」
「そんなこと言わないで、使ってみてくださいよ。絶対良かったって思いますから。それに主任が他の人にも勧めてくれたら主任にもマージンが入るんですよ。良い話しでしょう」
「加藤君、君は何をしているんだ!ここは会社だぞ。そんなことするんじゃない」
当然、会社からはすぐに副業をやめるように注意されたのだが、会社での勧誘をやめただけで副業は続けていた。会社でも熱心に働き、副業にも精を出すそんな生活が続いた。
●休職し治療、7カ月後に復職
数ヶ月後、隆さんが常にハイな状態にあることに家族が気づいた。たしなめてもいっこうにおさまらない。話の内容が次から次へと飛び、片時もじっとしていないが本人は全く意に介さない。両親が精神疾患を疑って受診をすすめてもいっこうに聞く気配もない。そこで「つきそい」と偽っての受診となったのである。

診察をはじめても躁的錯乱状態であり、診察用のベッドにあがり飛び跳ねてみたり、壁を登ろうとしたり、とにかくはしゃいでいる。
「ヤッホー!!」
「早く、売りに行かなくっちゃ。出してくれよ~!!」
保護室に入っても行動は変わらず、叫びながらベッドの上で飛び跳ねるため、医師はこのままでは脱水状態の治療ができないと判断し、隆さんの体をベッドに拘束した。その上で点滴を開始し、鎮静剤を注射して隆さんはうとうと眠り始めた。

後で両親に確認すると、この4日間ほとんど眠っていなかったという。翌朝目が覚めると前日よりもトーンダウンしてはいるものの、喋り始めるとなかなか止まらない。飛び跳ねない約束で拘束は解除し点滴は終了したが、時折柵を上ろうとしたり病衣を脱いでは着直すなど忙しい。数日後には大分落ち着き、口数も少なくなった。

数日間治療を続けると落ち着いて来た。
保護室から観察室、個室、4人部屋へとだんだんと移ってきた。
落ち着くと普通の若者である。
病気であることも理解でき、「会社に迷惑はかけられない」と退職を希望。
ところが会社側は「半年ほど休みをあげるから、病気治療に専念し、その後、復職してはどうか」と提案してきた。治る病気なら治して、復帰してほしい。会社にとってそれほど貴重な人材だったようである。そこで半年間様子を見てそれから決めようということになった。

仕事を頑張りすぎることが病気をさらに悪化させていたし、友人が結婚するので結婚式の二次会のプロデュースを買って出て、徹夜で準備したりした。そのことがさらに発病を促進したようである。
落ち着いてくると「自分がハイな状態で、自分でもコントロールできなかった」と話してくれるようになった。

実際に復職したのは入院から7ヶ月後。今では元気に働いており、月に1度外来通院で様子をみている。副業をきっぱりとやめたことは言うまでもない。
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